太気至誠拳法(通称:太気拳)
太気拳とは 、
大成拳(意拳)創始者、王郷斉老師から唯一、
外国人として学んだ
日本人、澤井健一が、
師の許可を得て、日本で創始した「武道」です。
理論だけに走りがちな中国拳法の中で、実戦性とその強さゆえ、
武術関係者からは最強の実戦拳法と畏れられ、
多くの武術家が澤井の教えを請い、
現在も極真空手をはじめとする様々な武道・武術に大きな影響を与えています。
「大成拳・意拳創始者 王郷斉 老師」
(1886-1963)
半歩進んで崩拳というごくシンプルな技を出すのみで、 向かうところ敵なし、とうたわれた 「形意拳」の達人、郭雲深に学ぶ。
郭雲深は王の実力を見抜き、徹底的に站椿(立禅)をさせ、 王も師の力はこの立禅によるものと理解していた。
老師が亡くなってからは、様々な武術家と手合わせをし、 何千とある中国拳法のエッセンスを抽出して新たな拳法を作り出す。
その強さに周囲の人々からは集大成したという意味で 大成拳(別称:意拳)と呼ばれ、多くの優れた弟子を生み出した。
ずっと動物の動きを見て効果的な身体の使い方を研究したり、 日本の柔道や剣道の本まで所有しており、澤井もその研究熱心さには驚くものがあったと語っている。
(立禅を重視し、とにかく実戦主義だったということ、研究熱心だったという点などは、 今の太気拳にも見事に引き継がれています)
「太気 至誠拳法 宗師 澤井健一」
1903年福岡に生まれる。
柔道5段・剣道4段・居合道4段の腕前であったが、 後に志を抱いて中国に渡り、そこで友人から聞いた、 国手(国を代表する拳法家)と称される拳法の達人に挑戦する。
その名を王郷斉といい、腕はか細く、身体も大きくなかったが
得意の柔道で組み付こうとするたびに何度もはね飛ばされる。
そこで今度は、先に組み付かせてもらうと「それで良いのかね?」といわれ、「よい!」といった瞬間、心臓を打たれ、またもやはね飛ばされていたという。
(のちに澤井はこの時のことを、ぴりっと刺すような、
そして心臓が揺れるような変な痛さで恐ろしくなったと語っている)
さらに得意の剣でも挑んだが、結果は全く同じで、
その時、王郷斉老師は静かに「剣も棒もすべて手の延長なのだ」と静かに言われたという。
完敗という結果にあまりのショックを受け、食事ものどを通らないほどであったが、
遂に弟子入りを決意。澤井健一36歳のことであった。
外国人であったということや、剣道・柔道に通じていたこと、 そして当時、誰よりも王郷斉老師に礼儀を尽くし、物資の貧しい時代にあって、 毎月車で、小麦、米、干し肉などを王老師のもとに届けており、それは中国人の及ぶところではなかった。
そのため王郷斉老師に特別にかわいがられ、老師の自宅の庭で頻繁に指導を受ける。 (王郷斉老師の直弟子、韓星垣先生の弟子であった塗行建という人物が各地におられる王郷斉老師の直弟子にインタビューしたものを、台湾の雑誌に発表した記事より)。
一部には、外国人である澤井健一が王郷斉老師の直接指導を受けていたはずがない、 とする記事もあるが、高木康嗣至誠塾塾長も中国での練習の様子を澤井が語るときには、 王郷斉老師の名前が頻繁に澤井の口から出て、 相手をしてくれたときの王老師の強さを何度となく聞かされたという。
例えば、後に澤井は、稽古中相手をしてくださった王老師の強さについて 「とても恐ろしくて人間とは思えないほどだった」と語っている。
入門してから4,5年後の昭和20年(1945)8月15日、終戦を迎え、 一家で自殺をしようと考えていた矢先に、王郷斉老師が澤井の家を訪れ、 自殺など間違っても考えないようにと何度も念を押されたと言う。
そして「生きて日本に戻ること、それが大成拳(意拳)のためでもある」と語った。
日本に帰国してからは、極真会館の創設者、大山倍達氏らとも親交があったことから、互いに研鑽を積み、 その弟子達に稽古をつけていた。このころから独自に、自分の学んだ拳法を伝えるべく、 神宮の森で日曜日に弟子に伝え始める。
まだ気功が知られていなかった当時、立禅等を初めとする練習風景が異様だったことと、 激しい組手稽古で当時から有名であった。
そして澤井自身も60、70歳という高齢になっても数々の武術家に誰彼となく真剣勝負を望み、 人間とは思えないほどの俊敏な動きで、信じられないような強さを示した。
その勝負は実際に、数え切れないほどの人間がそれを目撃し、 自ら「澤井先生に完敗した」と告白する武術家も少なくない。
当時の澤井先生の強さを高木塾長におうかがいしたところ
「初めてお会いしたとき、澤井先生は80才近くのご老人でしたからね。
はた目から見ると、動きものろいんです。
ところがいざ先生の相手になると、目の前にいたはずの澤井先生が、
気がついたときにはもう自分の胸元近くにいるわけですよ。
そうなってしまったら、もうあとはやられ放題です。
蹴りもクソ蹴りなんですが、またその蹴りがよけられない。
しかもそのクソ蹴りが入った瞬間『あ、今肋骨2,3本折れたかな?』っていう、
えぐられるような蹴りで人間業とは思えなかったですね。恐ろしかったですよ。」
1988年7月16日没
(←・・写真は、澤井先生と修業時代の高木塾長)
今もなお、その強さが多くの人々に語り伝えられ、
高木塾長ら、数人の高弟たちによって、
その技が伝えられている。
「太気拳・意拳(大成拳)の特徴」
王郷斉老師は、形意拳の達人であり、 師でもあった郭雲深の強さの秘密は気にあったと考え、[気なくしては技はない]と考えました。
そこで気の養成法である立禅に注目し、まずこれを訓練の土台に置きました。
よってこの拳法は立禅なしに語ることはできず、 立禅の後に習う様々なトレーニングもすべてこの立禅の延長です。
ただし、ここでの「気」とはよくテレビで見られるような、人に触れずして倒すと言ったようなものではなく、単なる条件反射・運動神経といったものを越えた究極の運動神経と考えてください。
よく澤井先生の動きは人間の動きを遙かに越えており、
それはもうミズスマシやエビのはねるような瞬間的な動きだったと言われていますが、
これこそこの「気」によるものだと考えて良いと思います。
ただし、これは長年修行しているうちに、自らが身体で初めて理解できるもので、 長年修行したもののみが体験できる、ご褒美のようなものです。
また王郷斉老師は、 「中国拳法は何千とその門派があるが、不意の攻撃を受けるときのパターンがいくらもあるはずはない。 そしてそのときに身体から出てきた自然な動作こそが武術である」と語っています。
王老師は研究熱心で、形意拳を初めとして梅花拳、八卦掌、白鶴拳、少林拳など様々な中国武術を研究し、そのエッセンスを抽出した後にその形(型)を捨て、いくつかの数段階の基本的な動きを習得し、 あとは組手を行うというシンプルな拳法となっています。
この拳法が [有形無形、形あって形なし]とよく言われるゆえんです。
またこの拳法は、王老師の時代に様々な中国拳法を集大成したという意味で、
大成拳とも言われていたことがあるように、
「動きが柔らかく円の動きをし」、
「不要な力を使わずタイミングとバランスで戦う」、
「身体どこからでも力を発することができる」、
「拳を堅くにぎらず、掌を使う」、
といった多くの中国武術の特徴を持っています。
しかし、一般的にはこれまで述べたように、気(意念)というものを重視し、 型をなくした革新的な拳法といえば、その骨格はつかみやすいかと思います。
「太気拳の修行の過程」
まずは「立禅」により気の養成と足腰の鍛錬を目指します。
これはまだ動きがなく、‘静’の状態です。
ここから「揺り」という動作に移ります。これは‘静’の状態から‘動’へゆっくりと身体を移行していく過程です。
そして歩法および足腰の鍛錬を目指す「這い」というトレーニングに移って行くわけですが、 この立禅揺(ゆり)這(はい)」の3つが太気拳の基本中の基本です。
つぎにいよいよ練と呼ばれる実際の技を学んでいく訳ですが、打拳・払手・差手・迎手と分類されており、 ここで相手の力を利用して攻撃したり、防御の方法を習得することで身体を練り上げて行きます。